愛でご飯が食べていけるのか

小さい頃、今よりずっと知らないことが多くて【直観】でいませんでしたか?オトナになって頭で考えるようになり、たくさんのスキルを身につけ、やらなければならないことがたくさんある中で頑張って生きてきた。できるようになった。でもうまくいかない。もっと上にいきたいのか?なにかモヤモヤする。やりたいことはこれだったの?小さい頃の方がうまくいってた。なにも知らない時の方が強い自分でいれた… そんな気持ちのあなたのヒントになりますように。

何をしてきた人間か?(簡単な経歴その1)

1979年:福井県敦賀市で、ゼネコン営業だった27歳の父と専業主婦の24歳の母親との間に生まれる(富山→金沢で生活)

 

1982年:京都に引っ越す。水泳、習字、ピアノを習い始める。

 

1984年:地元の公立幼稚園入園。スモッグを汚したらお母さんに怒られる…と日々母親に怒られるのを恐れて過ごす。

 

1986年:地元の公立小学校入学。水泳の選手コースに通い出す。(センスないけど負けず嫌いで努力するから…という理由)

 

1989年3月:全国ジュニアオリンピック10歳以下女子200m個人メドレーで4位入賞

 

1991年:水泳一時的にお休み(コーチへの反乱&塾への憧れと負けずぎらい)

 

1992年:私立中学ギリギリ入学 (スカート履きたくないだけの理由で制服なしのところで、おしゃれそうな学校を選んだら、運良く大学までエスカレーター)

 

1994年:全国ジュニアオリンピックや全国中学で複数種目表彰台に乗りまくる。

一方で日本代表になれず、「こんな頑張ったのになれないんだ…」と諦めて遊ぶ。太る。

 

1995年〜1997年:水泳はやる気なしだったけど、彼氏が水泳選手だったので惰性で続ける。常に悶々としていたころ。もちろん水泳はプライドもクソもないレベルまで落ちる。

インターハイジュニアオリンピック、国体も出るだけな人。

 

1998年:大学入学。水泳部に断れずズルズル入ることになる。第二言語で選んだ中国語にハマる。

 

2000年:長年付き合った彼氏とお別れ。約半年人間らしい生活が送れなくなる(今考えるとふつーに鬱)

中国に短期留学。と、同時に水泳選手としても傷心だったのに大復活。インカレでB決勝。

女子主将になる。

 

2001年:数少ない同期と水泳部のことだけ考えて生きる生活。

就活は「中国語の通訳なりたいから一般職で働いて残り時間勉強する」と宣言し、ぼーっとしていたところ、友人に「一般職でも筆記テストがあるということ、面接があること、練習のためにいろんな企業を受けるべきだ」と諭され、

就活サイトに登録。

翌日の朝に筆記テストがあった会社にエントリー。説明会参加せず筆記テスト受ける→面接→面接たのしい!!→内定。

(なんの会社?名前は聞いたことあるけど…で決める)

 

ちなみに中国語と部活三昧で大学の単位はギリギリ。今でも卒業できない夢たまに見ます…